徒然に 310
今日は金曜日最終回を迎える作品たちとからバトンを渡されたように明日から始まる作品たち、「私は確信する」「天国にちがいない」「ソビエト時代のタルコフスキー」の特集が始まります。
また本日1回限りの特別上映では「アリ地獄天国」。
土屋トカチ監督と川村雅則さんのゲストトークも。
いつもながら金曜日はお客様もキノも忙しい1日の始まりです。...
それでは昨日の続きになりますが、キノの始まりのお話を。
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「映画に育てられて」―2
シアターキノは、札幌の商店街、狸小路6丁目に1992年7月4日、
日本一小さな映画館として誕生しました。
前身は8ミリや16ミリフイルム、ビデオアートの作品などを上映するフリースペースの「映像ギャラリーイメージ・ガレリオ」でした。
映画誕生のサイレント期の作品も上映していましたので、
グリフィス監督の「散りゆく花」や「東への道」のあの真珠のようにかわいらしい少女リリアン・ギッシュに出会ったのもこのころでした。
そんな少女の声をはじめて聞いたのは、少女がおばあちゃんになってからでした。おばあちゃんになってもかわいらしい「八月の鯨」。あの時の感動は忘れられません。
ポーランド映画をまとめてみる機会もできました。アンジェイ・ワイダの「灰とダイヤモンド」「地下水道」やポランスキー「水の中のナイフ」「タンスとふたりの男」、ベロッキオやスコリモフスキ・・時代の渦中にいる映画はとても刺激的でした。
そんなイメージ・ガレリオに転機が訪れました。
札幌に4スクリーンあったミニシアターが続けざまに閉館していったのです。
ミニシアターの映画で育ってきた私たちは、このままでは見たい映画が見られなくなる、そんな危機感が募り、8ミリ、16ミリフイルムの映像世界から階段をもう1段上がって35ミリフイルムの作品を上映できたらもっと世界が広がるのでははと思いました。
でも35ミリの作品を上映するには商業映画館にならなければいけない。
業界のことは全く知らない私たちは、福岡から広島、大阪、京都、名古屋、東京・・と北上するように全国のミニシアターの旅がはじまりました。
お会いしたどこのミニシアターの支配人も「大変だから(採算が取れない)やめたほうがいい」とおっしゃるのですが、映画が好きでこの仕事をしている方たちなので、しんどくても楽しいということがみなさんの表情から伝わってきます。
身の丈のスペースの維持であれば私たちにもできるのでは、そんな勇気をもらいました。
イメージガレリオのスペースを改装して映画館にしよう、
そのためには最低でも1500万かかるのですが、当時はNPOもない時代、大きな事業をするには株式会社しかないと思い、
1口10万円で市民株主を募集することにしました。
今まで培ったネットワークの友人ら103人が手を差し伸べてくれ、私たち夫婦のわずかな貯金とで借金することなく、わずか29席、日本一小さな映画館「シアターキノ」が誕生しました。
お披露目はジェーン・カンピオンの「エンジェル・アット・マイ・テーブル」から始まり、
ヴェンダースの「都市とモードとビデオノート」、ジャームッシュの特集。
映画館の先輩たちからは「最初の3年は赤字が続くと思うけれど、くじけないで」と励まされていたのでその覚悟はできていました。
そうしてキアロスタミ監督の「友だちのうちはどこ?」や日本でも大ヒットしたイギリスの話題作「トレインスポッティング」、ウォン・カーワァイの「恋する惑星」「ブエノスアイレス」などではビルの外の通りまで長蛇の列ができて、
よちよちある歩きだったキノが少しずつ2本足で立てるようになっていったように思います。
岩波ホールさんに初めてお電話して上映させていただいたのはワイダ監督の「婚礼」のときでした。まだまだ未熟な映画館でしたので、原田さんから丁寧な言葉をいただいてとてもうれしかったことを今でも覚えています。
私たちは映画を通して人に育てられている、そう思いました。
是枝裕和監督とARTAさんなどゲストを招いて「ワンダフルライフ」先行上映も嬉しい思い出でした。
上映後のティーチインのときのことです。ある男性が「今日一緒に見に来た彼女にプロポーズしたい」といったのです。
プロポーズされた彼女は「はい」と小さく恥ずかしそうに答えました。その瞬間、場内からはおおきな拍手がわき、
わがことのように感動して泣いている方もたくさんいて、
こんな瞬間に立ち会えるなんて!
映画のテーマでもあった「人生のいちばん大切な瞬間」をこの場にいるすべての人たちが分かち合った幸せな時間でした。
映画館という「場」で1本の映画がお客さまと作り手をつないでひとつになった。
今でもこんなに沢山の人達と共有した思い出は他にありません。
(つづく)
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★写真は明日から上映の作品たちで。