徒然に 308
ヴェネチア国際映画祭でプレミア上映され、アカデミー賞ではポン・ジュノ監督パラサイト 半地下の家族」やアルモドバル作品とともに長編映画賞にノミネートされ、
世界が注目するポーランドの若手監督ヤン・コサマの3作目となる「聖なる犯罪者」が2週目に入りました。
あまりの衝撃に見終わったあと、心の整理をするのに時間が必要だったりします。
人の心というのはとても複雑で、衝動のように突発的な行動が伴い、...
簡単に言葉にできない
なにか大きなものに塞がれているような、感覚を覚えます。
不良同士の喧嘩から殺人を犯してしまったダニエルは少年院で
厳格なトマシュ神父と出会い、次第に信仰に目覚めてゆきます。
神父になりたいと望むダニエル、
しかし犯罪者は神学校にいくことはできない。
神父になることはできないのです。
ジレンマを抱えながら仮出所した彼は、ふと立ち寄った小さな村の教会で
「自分は司祭だ」とつい嘘をついてしまいます。
その嘘に自分でも慌てて逃げ出そうとするのですが、
事態は思わぬ方へと・・
元犯罪者が司祭になりすましたという事件をもとに、
聖と悪の境目とは一体何なのか、観るものに鋭く問いかけてくる
実話から生まれた衝撃作です。
罪を犯したダニエルは、村人たちとの対話を通して、
いかに自分が弱い人間であるかを知ってゆく。
心のなかに眠る悪と弱さ、ダニエルが村人たちに語る言葉は
そんな自分に根ざしたところから発しているため、
ひとの心にストレートに届き、
真の聖職者が担うものをダニエルは自分なりのやりかたで
模索し、村人たちからは信頼されてゆく。
しかし、それでも人は変えられないのか―
この映画のすごいところは安易なハッピーエンドの終わり方をしないこと。
上半身裸になって両手を高く掲げる。
そこには司祭の服をまとわない生身のダニエルがいる。
そしてその背後にはキリストの磔刑図が。
パンフレットに四方田犬彦さんが書いてらっしゃる文章を少し抜粋でご紹介します。
「ヤン・コサマの『聖なる犯罪者』を見終わった時、最初に思い出したのは、
スペインのルイス・ブニュエルが亡命先のメキシコで撮った
『ナサリン』(1958)という
フイルムだった。
主人公のナサリンは神学校を優秀な成績ででた真面目な修道士で、メキシコシティの貧民街で伝導に勤めているが、
ふとした誤解から放火と殺人の罪を着せられて
「破戒僧」として逃げ回ることになる。
あるとき伝染病が蔓延している村で瀕死の少女を看病し、祈りを唱えたところ
なんと少女は生き返ってしまう。
村人たちは熱に浮かされたように聖者様、キリストの再来とまで言い出し始める。
しかし、ナサリンは大いに当惑して噂を否定するが、その言葉を受け入れようとはしない。
村を去ったナサリンは警察に逮捕され、処刑場へと送られてゆくところで映画は終わる。
彼の心にあるのは、結局のところ自分は果たして人を救うことができたのだろうか、
という疑問だけだった。
ブニュエルは常に自分が無神論者であると語っていた人物だが、
この作品を通して、人間にとって真の信仰とはなにか、
また救済とは何かという大きな問題に向き合っていた。
『聖なる犯罪者』と『ナサリン』、2本のフイルムは、人物設定こそ真逆にあるというのに、人間にとって悔悟、救済とは何かという問いをめぐって、極めて近しい眼差しを持っているように感じられた。」
そして最後の方で映画のクライマックスに触れ、
神学者ニコライ・クザーヌスが説いた
聖なるものと汚れたものが、強烈に相反しながらも深いところで象徴的に一致を遂げる、というのが宗教の原理である。
という言葉を添えています。
四方田犬彦さんの全文(長文ですが)、映画を見た後に読んでいただけるようにと
展示しました。
いろいろな視点から語られていますのでぜひ参考になさってください。